合気の章④

合気の章

冠光寺流・名古屋の稽古で体験した畑村先生(以下、自分は氣空術門下であるため、会長と書く)の突きは本当に衝撃的だった。それを身をもって、感じたのである。その時は体験という形での稽古への参加だったが、「これは何としてでも、この突きを会得したい」と、その場で入門を決意した。
ちみに氣空術の本(謎の空手・氣空術)は体験稽古の前から読んではいたのである。自分は読書も好きだから、興味を引かれれば一気に読んでいくタイプなのだが、初めに技術総論の章を読んで、頭の中が「?」だらけになった。畑村会長が難解に書いているというのでは決してない。むしろ、それは懇切丁寧に解説されているのだ。たとえば、技のかけ方について書いてある文面がある。

技のかけ方ですが、相手に対して全ての敵意を消し去り、決して「倒してやろう!」とせず、従って相手を愛するが如く、筋力や体重の行使を棄てるのです。

受け技についても同様のことが書いてあった。相手の攻撃を一歩進んで心から受け入れると…「そんなことができるか」と思いつつ読んでいたら、こう続けて書いてあった。
ただし、決して「腑抜け」になるのではない。一般に考えられるような脱力で相手に拳や足を当てても、効くわけがない。それが真剣な戦いであればあるほど、かえって相手の怒りを買い、ボコボコにされるのがオチ。
それはまったく、そのとおりだ…。このあたりは非常に納得できる。しかし、前述の「相手を愛するが如く、筋力・体重行使を棄てる」というのが腑に落ちない。そんな状態でアドレナリン全開の格闘モードで向かってくる相手に対して対応するなんて、できるものかと。これはやはり、実戦を知らない武術名人の範疇ではないか。失礼ながら、そんな疑問すら抱いた(事実、こういう人も多い)。がしかし、会長は長年、空手を修錬されてきた武道家である。武道の究極奥義には、そういう世界もあるのだろうかという興味も同時に抱いた。さらに、本には炭粉さんという、フルコンタクト空手の猛者である方の寄稿もあった。その一部を簡略化して記載する。

今まで様々な武道・武術家の方々の打撃法による突きをこの身の中段(胸や腹)に試していただいた。それらの突きは各々に皆、素晴らしい威力があった。単に筋力や体重由来ではありえない、不思議なその威力…けれども、それらはその威力の故に「くる」と分かってさえいれば耐えることができた。(頭部や顔面などに打撃を受けて脳を揺らされた場合は別)骨が折れようが内臓が破裂しようが、鍛え抜いた人間なら、しばらくの間は精神力で立っていることは可能なのだ。また、吹っ飛ばされることはあっても、それだけでは倒れない。しかし、氣空術の突きは打たれる用意をしようがしまいが、無条件に完全に倒されてしまう。

初めて氣空術の突きをくらって、床に叩きつけられた炭粉さんは驚愕しながら、畑村会長に訊ねた。「どうやって打っているのか」と。すると、こんな答えが返ってきた。
「力を入れずに相手のことを受け入れ、愛するように」…威力ある技はその威力故に、耐えられる。威力なき技はそれ故に、耐えられる対象がない。

信じられない話だが、信じられない体験を実際にしたのである。その一ヶ月後、氣空術をもっと、知りたいと思った自分は会長に「次回の冠光寺流稽古の前に、氣空術の技(合気)を体験させてもらえませんか」と頼んだ。会長はそれを快諾してくれ、自分はその日が来るのを心待ちにしていたのである。今から四年前ぐらいの話だ。
そして、当日。とあるスポーツセンターの武道場。所定の時間より早めに着いた自分は、畑村会長が来られるのを静かに待っていた。待機していたのは武道場の玄関前。定刻の時間どおりに会長が颯爽と現れた。そして、挨拶する間もなく「じゃあ、早速やりますか~」と言う。
そんな会長から、まず氣空術の基本的な原理、考えを伺った。それは本にも書いてあったことだが、「話を聞くだけでは解りづらいでしょ。だから実際にやってみましょう」ということになったのである。

「氣空術は全て自然な体の使い方。まずはこんな感じ」といきなり、右手首をとられたと思ったら、身体ごと崩された。「はい、起きましょう(笑)」と元の体勢に戻され、今度は逆の方向に崩される…。突きの衝撃力にも驚かされたが、これには別の感覚で驚かされた。崩されたにもかかわらず、痛くないのだ。それは関節を決められている技ではなく、自分の手首に会長の手がピタッと吸い付いてくるかのように崩されてしまうのだから。
「筋力は一切、使ってないですよ。皮膚に接触させるだけ」と言われるものの、不思議でならない。「ならば」と、こちらもそれを断ち切る意識で畑村会長をとらえようとしたところ…やはり、瞬時にとられて崩されてしまう。
「氣空術の基本で二方向という技術もあるんです」
今度は軽く突きを当てられたら、腰からグシャッ!とつぶされた。今までいろいろな格闘技や武道の技をかけられてきたけれど、こんな感じの体験は初めだった。「なんで、こんなことになるんだ?」と、不思議でならなかった。自分にしてみれば、未知の技のオンパレードである。一体、どうしたらこういう技ができるんだ?もっと、いろいろ教えてほしい、聞かせてほしい。心の底から興味・関心がわいてきた。しかし、冠光寺流の稽古時間が迫ってきたため、また後でということになった。
そして、二度目の会長が師範として指導する冠光寺流の稽古への参加。もともとが「衝撃的な突き技」に関心を抱いて入門をした自分である。正直、合気柔術の技にはさほどの興味は惹かれなかった(それは今もそうだけれど)。結局のところ、「自分は打撃系が好きなんだ」と、改めて思ったりもした。そんな心境でいるから、基本の合気技が面白くない。他の門下生が楽しそうに稽古していても、「あれが果たして、実際の場面に使えるんだろうか」という猜疑心も抱いていた。失礼極まりない言葉になるが、さきほど受けた会長の技とのギャップが大きすぎるのだ。それでも皆、互いに投げたり、投げられたりしている。敢えてその時の自分の本音を白状すると、「これって、集団自己暗示みたいなものじゃないか?」という疑問がわいた。あるいは心理学で言うラポールみたいなもの。
会長って、素晴らしい!氣空術はすごい!そんな意識がその場に入り込み、楽しさのあまり、技にかかりやすくなるのではないかと懐疑的になったのだ。もっと不遜なことを白状すると、ある人から技をかけられた際、意識的に「かかるまい」とした。するとどうなったか…。技が全然、かからなかったのだ。そんなことが何度かあるうちに、「結局、これらの技は畑村という天才肌の人にしかできないのではないか」という思いも募ってきた。
ところが、おそらく会長はそんな自分の心境を見抜いていたのだろう。

「ちょっと、こちらに来ていただけますか」と、さきほど稽古していた人と自分が道場の中央に呼ばれた。そこでもう一度、同じ技を指導されたのだ。ただし、今度は会長がその方に介添えをして…。すると、あっけなく崩された。それも一度だけでなく、二度も三度も。さらに会長は一人の女性を呼んだ。稽古に参加するのはその日が初めてという方である。長くなるので、この話は次回へ続く。

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