合気の章⑦

前回、実際の攻防で果たして合気は通用するのかと書いた。自分の体験から踏まえて言うと、それは極めて難しい。ただ、技の応酬の一場面への展開、あるいは柔らかい身体操作は活かせると思う。

その体験談の一つを書く。心と身体を使って無駄のない、自然な動きを修練するのが氣空術。しかし、支部稽古だけでは飽き足りないから、ものは試しと、打撃系武道をやっている知人とも実際に打ち合い、蹴り合いをする組手もやった。氣空術入門当初は「合気技よりも、会長のような衝撃力ある突きを会得したい」の一念である。こういう稽古をすればいいというアドバイスも受けながら、自稽古あるいは対人稽古で何度も「突き」の感覚をつかもうとした。そして、それはそれなりにできつつあったのだが、実際の攻防に使えるかどうかといえば、至難の業だ。
当たり前の話だ。どんなにハードパンチャーであったとしても、自分と向かい合った相手は動く。ましてや、打撃の熟練者であれば、そうは簡単に威力ある打撃を与えることなどできはしない。「せめて、対人の組手の中でできるようになりたい」と思った自分は再び、打撃の世界に臨んだ。がしかし、そうは簡単に当たらない。いや、当てることはできる。そこはそれ、長年の格闘技経験は錆びてはいない。打ち合いも蹴り合いもできる。スタミナを消耗しないよう、必要最低限の動きをすることもやっていたから、それなりに対応はできる。スタミナ自体は衰えているが…。

そんなある日のこと。スーパーセーフを着けて、八割程度のライトコンタクトの組手をやっていた時のことだ。相手のパンチが自分の胸あたりに飛んできた。それがちょうど、自分の腕の外側に当たった。その時、受けるというより、無意識でそのパンチを軽く払った。からまったクモの巣を払うかのごとく。
すると、相手が「うわっ!」と、声をあげて横倒しになったのだ。唖然とする自分に、起き上った知人が「今、一体何をした?」と聞いてくる。何をしたと言われても、やった自分自体、何をやったか分からない。ただ、軽く払っただけである。決して、投げよう、崩そうとなんかしていない。にもかかわらず、そんな現象が起きた。お互い、いぶかりながら「もう一度、やってみよう」としたが、今度はできない。何度、繰り返してもできないのだ。

帰宅してから、会長にその話をしたところ、「それが合気。やってやろう感なかったでしょ。次にできなかったのは、同じことをやってみようという気になったから。自然な動き、無意識の動きでないと、できへんよ」と言われた。何となく分かりはしたものの、不思議な体験だった。

あるいは時と場所を変えて、こんこともあった。地下鉄のホームを歩いていた時のことである。前方で野球部とおぼしき高校生たちがふざけていた。その一人がスポーツバックをもう一人の相手にふざけてぶつけようとしていた。中身はウェアやグローブやタオル程度のものだろうから、そんなに重いものじゃない。
そして自分が間近まで近づいた時のこと。逃げる相手に一人がまた、バックをぶつけようとした。とその時、振り回したバックが勢いあまって、近づいた自分にぶつかりそうになったのだ。腕で受けようとしたら、簡単にできたと思う。ところが、そのぶつかりそうになった瞬間、何をしたかというと、スッと入って、左手で相手の右の肘内側あたりに触れたのだ。

するとなんと、投げたわけでもないのに、相手がストンと落ちた。本当に一瞬のことだったから、よく覚えてないのだけれど、たぶん、右手は相手の左肩あたりに触れたと思う。知らずして、二方向か二触法みたいなことをしたのだと思う。倒された相手は驚いていたけど、自分はもっと驚いた。「やろう」として動いたわけじゃないから。本当に自然に動いただけ。これも一つの無意識の動きの一例だろうが、嬉しかった。ふだん稽古していることがとっさに出来たのだから。

意識より、はるかに早い時点で成立する無意識の動き、それが合気だ。以降、数回にわたって、「これは…?」と思うような体験をして以来、合気に対する関心は深まっていく。
だから、ここで『心が大切』」だと会長は言う。先に紹介した合気上げも身体だけでなく、心も使う。押さえられ、握られた自分の手首に意識を置かず、握ってくる相手の後ろに立つ人をイメージして、その人に「お茶を差し上げる」かのように我が両手を上げる。この時、自分と相手が同調(互いの無意識が協調運動を起こす)するから、相手はそれだけで立ち上がってしまう。
合気は相手の無意識にかかるもの。前述した知人との組手やバックを当てられそうになった時の自分も無意識の動きだった。

そして以前、こんな実験をしたことがあった。友人と心で上げる合気上げの話をしていた時のことだ。友人が「心の信号が相手に伝わり、立ち上がるのなら、その信号を意識的に遮断したら、上げられないのではないか」と。そこで早速、やってみた。しかし、それでも上がるのだ。これは一体、どういうことかとブログに書いたら、会長の拳友である炭粉さんからこんなメールをいただいた。

合気は無意識の技。だから、意識で遮断したりは出来ません。(逆に言えば、意識して出来るならこんなに楽なことはない)。合気技が成功する時、意識的に「出来た」と思っても、それは意識よりは遥かに成立が速い無意識段階で既に成功しているのです。逆に失敗する時も同じく無意識段階で既に失敗している。
貴台が書かれているように「来るぞ」とか「何だか出来る気がする」とか「これは上がらない」などの一種の予感は、無意識が意識に与えています。つまり意識に与えられた段階で、既に結果が出ているのです。それをリアルタイムで意識化する事は、実は出来ません。何せ(もう結果が出ているのに)まだ知らされてないのですから(笑)。

無意識な動き、そう言われても難しいものだ。いかんせん、長年の経験で打撃に対しては、どうしても受けよう、避けようという意識が働く。やり込んできたからこそ、むしろ、それが自分にとっては無意識に近い状態になるのだ。
しかし、氣空術は「受ける」、「避ける」ではない。

ある日の支部稽古でこんなことがあった。相手の正面手刀打ちに対して、柔らかく前腕で受ける(正確に言うと、受けるではない)。これがうまく決まれば、腕を軽く下に落とすだけで相手は倒れる。ところが、自分はそれができない。どうしてもバシッ!と受けてしまうのだ。これしきのこと、相手がフルスピードで打ち込んできたとしても受けるぐらいはいくらでもできる。だが。落とすことができない。

「受けるになっている。そうじゃなくて、車のショック・アブソーバーみたいに腕を使ってごらん」

会長に助言されたものの、どうしてもできない。ところが、何度かやっているうちに偶然にも受けた感覚なく、相手を倒すことができた。こういうことは支部稽古ではままある。自分でも「おっ!」と思うことが…。だが、そのできた感覚を求めてやっていると、またしてもできなくなる。試行錯誤している自分を見かねた会長がこんなことを言った。

「受けよう、受けようという気持ちが強すぎる。打たれてもいい。相手の手を迎え入れるような気持ちでやってごらん」
迎え入れる…。そこで、その気持ちでやってみた。すると、自然に柔らかく受けるようになり、腕を振ったら、ストンと落とすことができるではないか!その時の相手は友人だった。「本当に決まったか?」と聞くと、「間違いなく決まった」と言う。受けるのではなく、迎え入れる…何度も繰り返した。すると、できる。稽古相手が変わってもそれができた。「受ける」のではなく、「迎え入れる」…この気持ちが無意識の技を成立させるのだ。

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