キックボクシング③

往年の名キックボクサー 藤原敏男選手

自分がキックデビューした当時は、すでにキックボクシング停滞期だった。テレビ放映され、キックボクシングが一大ブームを巻き起こした頃は、自分が所属していたジムも200名近くもの練習生がいたという。空手をはじめ、腕っぷし自慢の男たちがこぞって入会し、練習していたのだから、今のジムの雰囲気とはかなり、趣も変わっていたと想像される。「強くなりたい、選手を目指したい」という男ばかりが集まっていたのだ。今のような女性や子どもも通うようなジムではなかったのである。

ブーム最盛期、キックボクシングは日本キックボクシング連盟と全日本キックボクシング連盟があり、それぞれにキー局がついてゴールデンタイムに試合が放映されていた。自分が所属していたジムはその後者である。で、その連盟の看板選手が目白ジム所属(後に「新格闘術 黒崎道場)の藤原敏男選手だった。この目白ジムの所属の選手はいずれも強かったのだが、それは後述するとして、藤原選手の話である。全日本キックのライト級チャンピオンだったこの選手は独特のフットワークとファイティングスタイルで対戦相手をことごとく退かせていた。とにかく強かったのだ。その激しい戦いぶりから呼ばれた名前が人呼んで、「キックの荒鷲」。

藤原敏男選手

藤原敏男選手

試合は日本人選手と対戦するより、タイ選手との試合の方が多かったが、対角線上の攻撃、前後左右の相手を困惑させるようなフットワーク、それに加えて上下に散らす打撃で圧倒的な強さを誇っていた。フットワークといっても、ボクシングのそれとは違っていた。どんな方向にも自在に動ける足運びだったのである。そのせいか、藤原選手のふくらはぎは画面で観ていても、その太さが際立っていた。

印象に残っている試合はあるタイ選手との戦い。いつものように変幻自在の攻撃を仕掛ける藤原選手に相手は戸惑っているかのように見えたが、何ラウンド目かに、思い切って前へ出て、コーナーに追い詰めたと思ったら、思いっきりのパンチを打った。これをまともにくらった藤原選手はダウン。立っても足がフラフラで万事休すかと思われた。がしかし、すごかったのはそれを凌いでからの反撃である。そのラウンドが終わった次の回からは、ファイティングマシーンのような止まることのない猛反撃。防戦一方になったタイ選手は追い込まれ続け、最後は突きあげるようなアッパーでノックアウトされた。テレビの画面で、勝利者トロフィーをもらった藤原選手が「やっちゃった」とでも言うかのように、舌を出して照れたような顔をしていたことが今も記憶に残っている。

ムエタイ王座にも輝く

また、タイのラジャダムナン・スタジアムでチャラポン・ソータイ(ライト級王者)と対戦した時もすごかった。1Rゴング開始と同時に雄叫びを上げてコーナーから飛び出した藤原がクリンチ状態から右肘打ちを一閃!そのまま浴びせ倒しのように倒して、KO勝ち。この時の模様、藤原選手の肘打ちはマットに倒れる前か後かという微妙なシーンではあったが、ムエタイの試合そのものがダウン以外でも倒されるのがマイナス評価だったのである。結果、藤原選手はムエタイの歴史上初めて、国外の選手が現役王者を倒すという快挙を成し遂げた。

藤原選手の偉業はそればかりではない。その後、モン後楽園ホールで行われた試合ではサワン・ルークチェンマイに4RKO勝ちし、ラジャダムナン・スタジアムのライト級王座を獲得し、ムエタイ史上初の外国人王者にまでなった。がしかし、その後にタイで行われたシープレイ・ガイソンポップ(ルンピニー&ラジャダムナンライト級1位:タイ)と対戦して判定負け。この試合、どう見ても藤原選手がポイントを取っていたと思う。あれはホームタウンディシジョンだったのだろう。ムエタイはギャンブルにもなっているから、藤原選手に賭けていた観客からもブーイングが出ていた(その後、行われた国内の試合では同選手にKO勝ちした)。

藤原敏男選手

WORLD OYAZI BATTLE – SAMURAI RETURN ! –
2005年7月18日(月/祝) 東京・後楽園ホール

この藤原選手、テレビで試合を観る限りは大人しい顔立ちのように見えたが、実際に後楽園ホールで会った時は眼光鋭く、ちょっと近寄りがたいぐらいの迫力と凄みがあった。見ただけで、「怖いな、この人は」と思ったのは藤原選手ぐらいである。
自分は一度だけ控室が一緒だったことがあるが、しょっぱい試合をして戻ってきた時に「おまえ、どれぐらい練習してる?」と厳しい顔で言われたことがあった。そしてこうも言われたのである。「練習量が足りないから、あんな試合になるんだろう!」と。身もすくむ思いとは、ああいうことを言うのであろう。ちなみに藤原選手は毎日、10時間もの練習をしていたそうだ。朝のロードワークから昼間のジムワーク、夕方はスパー。さらに、大学のレスリング部や柔道部にも出稽古に出ていたというから、その練習量は半端なものじゃなかった。

圧倒的に強かった目白ジム 人呼んで「鬼の黒崎道場」

黒崎健時先生

黒崎健時先生

とにかく、この当時の目白ジムの練習量そのものが他を超越していた。トップに藤原選手がいて、フェザー級の島三雄をはじめ、バンタム、フライ級にもチャンピオンが勢ぞろいする強豪ジムだった。そして、それを指導する会長は元極真空手の鬼の黒崎である。
試合で目白ジムの選手と対戦するカードが組まれると、うちの会長も「早く終わるから、グローブ着けておくか」と言っていたぐらいだった。事実、その練習も密度も他のジムのそれを凌駕していたらしい。たまたま、目白ジムの選手(後にフライ級チャンピオンになった)と控室で話したことがあるが、「ちょっとでも気を抜こうものなら、先生(黒崎会長)から罵声と竹刀が飛んでくる。先輩の指導も厳しいから、いい加減な練習なんかできない」と語っていた。強くなりたいという入門者も大勢いたそうだが、その厳しい練習についていけず、辞めていく人間の方がはるかに多いとも言っていた。

ちなみに黒崎会長のことはこの世界では有名だが、極真時代からその稽古は稽古の域を超えていたという。そして、プロモーターから「ムエタイの試合に稽古生を出場させてみないか」と言われ、二人の高弟を伴って、タイに赴いた。この時、黒崎師はあくまでも、トレーナー兼セコンドとしての同伴だったのだが、出場選手が少なくて自らもリングに上がった。しかも、足(だったか?)の負傷を抱えての急きょの参戦である。この時はタイ選手の肘打ちの前に完敗した。あれがコンディションも良く、グローブ着用でなく、素手ならば勝敗は黒崎師に上がっていたことだろう。

しかし、この敗戦を境に黒崎師は空手に限界を感じて、極真を去り、打倒ムエタイを目指して目白ジムを立ち上げたのである。放映していたテレビ局は確か、テレビ東京だったと思うが、この目白ジムの存在がなかったら、あそこまで全日本キックボクシングの知名度は上がらなかったと思うのは、自分だけではないだろう。

ちなみに目白ジムはアメリカからの刺客、マーシャルアーツのベニーユキーデの試合で次々に日本人選手が倒されて以来、前述した「新格闘術 黒崎道場」を立ち上げる。その理由も「今のままのキックボクシングではダメだ」という思いがあったと人づてに聞いた。あくまでも次なる強さへと探求し続ける黒崎師の熱意はまさに、格闘技時代に燦然と輝く存在であったと思う。キックボクシングというカテゴリーにこだわることなく、常に前向きにそしてひたすらに突き進むその姿はまさに「格闘技の申し子」的な存在であったのだ。

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