空手道 禅道会 小沢 隆 代表の武道人生⑤

前回からの連載。自分が学んでいた空手が東海大学の柔道部員やアメフト、ラグビーなどの屈強な者と戦った場合を想定したり、実際に自分が実戦経験を積むにつれ、空手そのものに疑問を抱くようになった小沢は三年ぐらいしてから、その道場を去った。とはいえ、格闘技に見切りをつけたわけではない。より、実戦性の高い武道・格闘技を求めての旅立ちだったのだ。

乱立する空手団体の中で小沢が選択したのは…

その当時、空手団体はあらゆる面で分裂していた。一例を挙げると、さばきを中心とした空手、あるいはキックボクシング系の団体などなど、いくつも分派があった。その中には、総合格闘技に近いものに展開した空手もあった。その団体の組手は顔面にスーパーセーフを着けて、拳サポータを使う、金的もあり、投げもありというルールであった。そのような総合格闘技的な展開は、キックボクシングと同様の競技でありながら、投げなども認めたシュートボクシングのように総合格闘技に近いルールに動いた団体もあった。さらに、プロレスからUWFが誕生したり、佐山氏のシューティングが展開されるなど、総合格闘技系の色合いが強くなり、実際にやっている者は「どうすれば強くなれるか」を追求する時代になっていたのである。

さらに、一般人やメディアでは「どの格闘技が最強か!」というような全体的な流れもあった。そうした風潮の中で、小沢自身も空手をベースとした総合格闘技に入っていくことになる。S市に本部を置くその代表者はフルコンタクト空手の元全日本王者でもあった。そこに入門した小沢は今までやってきた空手への疑問や不安感を払拭すべく、「必然的に空手から総合格闘技の流れに移っていた」と話す。

その理由はずっと抱き続けてきた武道に対する憧憬。さらに、子どもの頃から持っていた虚無感、根底にある自分の精神の在り方を武道・格闘技の修練によって、消し去りたい気持ちもあったのだろう。 

そんな思いから様々なジャンルの格闘技の中でも特に武道色の濃い総合格闘技系の空手に移るきっかけになったのである。当時の心境を小沢はこのように話した。
「当時の自分自身を振り返ると、少年期の心にあった潜在的な不安感・虚無感を払拭したいという思いが武道色の強い総合格闘技系の空手を選択することにつながったと思います」

総合格闘技系の空手に入門する

とはいえ、すぐに総合格闘技系の空手道場に入門したのではない。小沢の住む近くにそういう道場がなかったのだ。一念発起した小沢はその空手団体の先生に「習ってみたい」という手紙を書いた。

返信をもらった小沢はその空手団体のあるS市へと向かった。とはいえ、住んでいたのは長野県である。距離のあるS市に引っ越すわけにもいかず、小沢はその空手団体にある尞に短期間の滞在をして稽古を行うようになった。「稽古したのは三週間から一か月ぐらいの単位でした。最初に行った時、その空手団体の先生から『長野の支部をやらないか』という話を持ちかけられましてね。自分としては深い気持ちもなく、同意して、長野と仙台を往復しながら稽古をしていました」

長野に戻ってからの稽古はどうしていたのか?という問いにはこんな答が返ってきた。「地元の長野に帰省した際、その団体の通信教育で稽古をする集まりがあったんです。その中にフルコンタクト空手時代の知人がいて、彼からの依頼を受けて児童養護施設の体育館で指導することになりました。そこでは施設の子どもたちも少しずつ混ざって稽古するようにもなったんです」

小沢はそのグループの稽古生に対して、総合格闘技空手の指導をするようになった。その間、長野と仙台を行ったり来たりである。さぞかし、慌ただしかったと思うのだが、それが長野支部のスタートラインになったのである。しかしながら、急に人が集まるわけではない。初めはわずか五人の門下生だったそうだ。

長野支部を発足・スタートする

当時、小沢はアルバイトをしながら、朝と夜の指導にあたっていた。だが、支部設立といっても、躍起になって拡大しようという気持ちはなく、「自分のスパーリングパートナーがいればいいな」というぐらいの動機だったそうである。ただ、子どもの頃から小沢が抱いていた「心理的な虚無感がそれで埋められるんじゃないか」という思いはいつも自分の心に漂っていたと言う。同時に、総合格闘技系の空手を学んでいても、大学時代からついてまわった空手への疑問は薄れることはなかったそうだ。

こうして始まった長野支部。当然ながら募集活動をしなければ、人が集まらない。地道にその活動を続けるにつれ、高校生ぐらいの年齢を中心に50名ぐらいの門下生が集まった。

その頃の様子を小沢はこう語る。「長野の飯田市は“陸の孤島”と呼ばれるような地域で、当時は高速道路もありませんでした。県庁所在地に行くより、東京や名古屋に行った方が早いぐらい、アクセスも不便だったんです。コンビニとかフランチャイズ店が最も遅く入ってくるような地域でした。それぐらい保守的な土地柄だったんです」。

その中で、いざ、支部活動を開始し、普及しようとした時に小沢はその地域で空手という武道(フルコンタクトも伝統派も問わず)の地位がとても低いことに直面させられる。空手そのものに対するイメージも悪かった。当然ながら、稽古しようにも公共の施設は借りにくい。新風巻き起こすという言葉があるが、飯田市の特別な地域性・事情も相まって、小沢の始めようとする空手が蔑視される経験を度々させられるにつれ、「空手の地位はなんて低いんだろう」ということを痛感させられた。結果的に公共施設は貸してもらえなかったが、最終的に古い小学校の講堂を何とか借りることができた。

道場で一人になると、改めて少年期の郷愁の情がわいてきた

そこは普通の体育館よりやや小さめの薄暗い裸電球一つの場だった。小さいながらも、支部道場のスタートになったのである。その道場に一人でいると、小沢は子どもの頃のような懐かしい感情がわいてきたそうだ。飯田市では変わらず、空手が蔑視されている。そこに小沢の少年期の郷愁感が不可思議にリンクするようなものがあった。そういう面で言うなら、格闘技をやっていくというには程遠い環境だったのだ。

さらに、である。その道場に入門してくる子は、基本的にいじめられっこが多かった。大学時代のような体力の強い、アスリートのような入門者ではなかった。どちらかというと、体力弱者のような子が多かったのである。「その子たちなりに、劣等感を無くしたいと入門してくるのがほとんどだったんですね。よくよく考えてみると、自分が少年時代、空手を始めたきっかけにきわめて近いものがあったんです。つまり、格闘技界の状況やブームも知らない、武道とは無縁なような入門者が大半で『空手という武道なら、自分のコンプレックスを解消できるんじゃないか』という期待を抱いた、どちらかというと気の弱い子たちが多かったんです」

それでも少しずつ門下生が増えてくる中、小沢は指導をしながらも一か月単位で仙台に足を運んで、自身の稽古もしていた。

少し余談になるが、飯田市は長野の南になるので、積雪があるのは冬でも年に二、三回しかなった。しかし、学んでいた空手の本拠地は東北。冬場になると、そこはとても雪深いところで、あたかも外国に行くかのようなイメージが小沢の胸中にあったそうだ。

「だから、朝のランニングはかんじきをつけて走るのかなぁというイメージだったんです」

ところが、現実のS市はそこまでの積雪はなく、逆に「長野は雪深くて大変ですね」と言われるなど、お互いの地域に対するイメージのギャップがあったそうだ。

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