空手道 大誠館 宮崎文洋館長の武道人生 2

有志を募って、東海大学正道会館・空手部を設立。

石井館長の強さに感動した宮崎はその場で、正道会館に入門した。その後、札幌の旭川の東海大学に進学。大学で学びながら、正道会館の札幌支部で稽古に臨んでいたのである。しかし、それだけでは物足りなかった宮崎は旭川から通いながら、大学でも部活を作ろうと、有志を募って大学一年の時に「東海大学正道会館・空手部」を設立した。こんなことを書くと、宮崎は恐縮するだろうが、若くして、彼には人望があったと思う。というのは、高校時代も部活で極真空手部を作っていた宮崎は、そこでも20人ぐらいの部員が集まり、共に稽古をしていたと言う。人が集まるということは、それだけ核となる人物に人を惹き付ける何らかの魅力があるからだと個人的に思うのである。

さて、正道会館の話。石井館長は年に一二回、はるばる大阪から札幌支部まで指導に来てくれ、昇級審査や実際の稽古もあり、宮崎はそれが楽しくてならなかった。大学で作った空手部も少しずつ部員が集まり、宮崎が四年の時には40人もの部員が集まる大所帯になっていた。東海大学と言えば、スポーツの名門だが、部員が多かったのは野球部と剣道部。設立した空手部は後発でありながら、その剣道部を抜いて、大学で二番目の規模の部活にまでなっていたのである。

正道会館の北海道大会が年に一回あり、それに出場できることも部員の励みになっていたのであろう。当時はフルコンタクト空手と言えば、極真空手のイメージが強い時代でその頃の正道会館はまだまだ、マイナーで小さい団体だった。札幌支部自体、門下生は20名ぐらいに過ぎなかった。しかし、石井館長は常々言っていたと言う。「極真空手に負けないで、正道会館はこれから日本一の団体になるんだ」と…。この時、先に正道会館に入門していた宮崎の兄が強く、北海道チャンピオンになっていた。

効果的に人を倒す技術を体系化していた指導体制

活躍する兄を追い求めながら、宮崎本人も大会に出場していた。その頃は無差別級しかなく、宮崎の体重は60㎏ぐらいしかなかったそうだ。それでも正道会館の技術力は他と全く違っていたので、石井館長が来るたびに人を倒すノウハウを細かく教えてくれたと言う。

「例えば、ローキック一つとっても、それまでの極真空手では、力任せに勝つために太ももを蹴れという感じでしたが、石井館長はローを蹴る際のスピードと角度とタイミングを細かく教えてくれたんです。さらに、昔の極真空手は自分の持っている技術を人に教えなかったんですね。これは当時のどの武道でもそうだったのでしょうが、見て覚えろという感じの世界。しかし、正道会館では全てオープン化して、どうやったら、効果的に人を倒す技術になるかを全て教えてくれたんです。打撃技の攻防だけではなく、道着をつかんでから捌く技術も豊富にありました。中でも一番、違っていたのは左ミドルキックで相手のレバーを効かせる『中段理論』を導入したことでしょう。それを打撃技として体系化したのは、フルコンタクト空手では正道会館が初めてだったと思います。当時の極真空手では、ミドルキックはあまり使えないという考えだったんです。勢い、試合ではハイキックかローでしか倒せないという風潮がありました。それを『中段理論』を取り入れることで、打撃攻防をより効果的にしたのは、画期的な試みだったと思います。また、当時の極真空手はサポーターを着けての組手はしていなかったんです。結果、稽古の時はガチでやるしかなく、ダメージもあるので、長時間にわたって組手やスパーをすることはできませんでした。その中で石井館長は独自で開発した拳サポーターとレガースを着用して、長時間にわたって組手やスパーをできるようにしたんです。それもガチではなく、五割ぐらいのライトコンタクトで30分、50分という長時間の攻防ができる稽古法を実施していました。こういう稽古を続けていくことで、門下生は組手慣れしてきて、身体が勝手に反応するようになり、この角度で打てば効くというのが体感できるようになってくるんです。その中で先ほどもお話した、レバーを狙うパンチや左ミドルキックが必然的に中心になっていました」

優勝を目指した大会で敗北を味わい、大きなショックを受ける

その当時の宮崎の体格は168㎝で体重が60㎏程度。優勝できるまではいかないにせよ、体格では自分をはるかに超える他流派の選手を倒すことができたそうだ。「倒す技術」が他を凌駕する正道会館の稽古の証だと改めて実感していたのである。やがて宮崎は入門して、大学三年次には大会で三位に入賞することができた。

その戦法は小柄だったので、正面からだとパワー負けしてしまう。サイドに回り込んで、相手の道着をつかみ、見えない角度からのハイキックが得意だったと言う。そして、試合に臨む時は「正道会館を守らなければならない」という気持ちでコートに上がっていたそうだ。大会には他流派の空手家もエントリーして、腕自慢が北海道中から集まっていたが、常に優勝するのは正道会館だった。空手に身を置き、常に稽古に明け暮れる毎日。勝つための試合パターンも我が物として体得できるまでになっていた宮崎。

四年の時は絶対に優勝しようと思っていた本人だが、なんと、二回戦目で正道会館の同じ流派の先輩に負けてしまった。人生初の敗北である。当時のことを宮崎はこう述懐する。

「悔しさで涙が出てしまい、後輩たちを置いて一人で旭川に帰ってしまったんです。それだけショックが大きかったんですね。ちょうどその頃は四年の就職の時期。当時はデザインも好きだったので、大学のゼミの先生からイタリアにデザイン修行に行くお膳立てをしてもらっていたのですが、負けたことの屈辱もあり、『ここで空手を辞めてしまってはいけない』という気持ちがわいてきたんです」

石井館長に「人生を捧げる」までの思いになる

イタリアでデザインの勉強をするより、もっと空手をやりたいという気持ちの方が強くなった宮崎は札幌に就職して、正道会館札幌支部でびっしり練習できる環境に身を置いた。石井館長も年に二回、札幌に技術講習に来てくれ、宮崎にとっては、空手が楽しくてならない時期だったのである。そして、その頃から正道会館は新たな動きをスタートしていた。それがK1である。F1が流行っていた時期で、テレビをはじめとするメディアでも盛り上がっている時期に石井館長が「それに負けないものをつくろう」と言い出したのがきっかけとなり、「空手のKをとって、K1を作ろう」という展開になったのは格闘技事情に精通している方なら周知の話である。

宮崎に言わせると、石井館長は有言実行で言ったことを全て、実現していく人だった。若くて、空手に夢中になっていた宮崎である。そこへカリスマ的な存在が身近にいれば、考え方も変わってくる。そのうち、宮崎は「石井館長に人生を捧げてもいい!」というぐらいの気持ちになったのである。ちなみに当時の空手の師範と言えば、強面のタイプが多かったそうだ。しかし、石井館長は違った。存在そのものが輝くようなものがあった。稽古は厳しくても、門下生にも気さくなで、長年、北海道に在住していた宮崎にとってみれば、関西弁のギャグもすごく新鮮なものに映っていたのである。それだけ、石井館長に心酔していたのだ。ところが…人生、そうは順風満帆のようにはいかない。正道会館・札幌支部で一つの問題が生じていたのである。

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