完全天然成分の高効果除菌抗菌剤の話①

人と環境にとって、より良いものを提供するココチプラス株式会社

つい、最近のことである。小沢代表(以下、敬称略)から一本の電話が入った。「とても素晴らしい仕事をされている方がみえます。一度、話を聞いてもらえないでしょうか」と。その人の名前は山口累生(やまぐち るい)さん。ココチプラス株式会社の代表取締役である。

初めに断っておくが、山口さん(以下敬称略)は武道家でも武術家でもない。その人をなぜ、禅道会のトピックス記事で紹介するかと言うと、その考えや事業の理念のようなものが禅道会、そしてディヤーナ国際学園に限りなく近いものを感じたからである。

武道は自身の体を鍛え上げ、強さだけでなく、礼法を通して対人関係を豊かにしていく。そして、無我の境地と言われるような心の状態を探求していく。そのような精神の在り方を大きくとらえると、“自然との融和”にまで広がる。個人的見解であるが、武道はそれだけ奥の深いものである。

一方の山口の考えは…企業として利益の追求だけにとどまらない。いや、それより先に「いかに人にとって良いもの、そして環境にとって良いものを作り、広く社会に伝えていくか」がテーマになっているのである。

ここまで読んでも「それがなに?」と思われる方も多いだろう。かくいう自分も小沢がなぜ、武道家でもない、一企業家である山口を紹介したかが分からなかったのである。しかし、その山口と話すことで、小沢が山口を自分に引き合わせた理由が分かった。彼女の思いはまさに、禅道会のそれと同じだと感じたのだ。

前振りはこれぐらいにしておこう。読んだ方にも、きっと関心を持っていただけると思うので、山口と代表を務めるココチプラスについて書くことにする。

幼少期は虚弱なまでの体質で、死にそうな感覚と向い合っていた

山口は広島県出身。生まれながらのアレルギー体質で喘息持ちだったそうだ。喘息と言うと、誰もがご存じのように、激しく動くとゼーゼーヒューヒューと気管支が悲鳴をあげる。冬は特にアトピーがひどくなり、気温差で喘息がおこり、呼吸すらできなくなったと言う。

当時を振り返って、山口は言う。
「今の私を見たら、考えられないかもしれませんが、夜中に発作をおこして夜間救急に駆け込むことは日常茶飯事の幼年期を過ごしていました。極度の虚弱体質だったので、日本脳炎などの予防接種も受けられなかったんです。医師から『あなたの場合は抗体に負けてしまう』と言われて。それに、今と違って、昭和の時代は化学物質や添加物も多かったんです。だから、ちょっとしたものに反応してしまい、子どもながらも何度も死にそうな感覚に向き合っていました。そんな私も成長とともに体力もついてくると、喘息の頻度はさがり、発作からも解放されたのですが、アレルギーが良くなることはなく、皮膚を掻き壊してしまうことも度々ありました。最終的に小学校四年生の時に発作そのものは治まったのですが、今度はとってかわるように蕎麦アレルギーが出たんです」

そんな山口の話に「自分も蕎麦アレルギーです」と話したところ、「酷呼吸が苦しくて、息ができなくなるでしょう。それの酷いのが喘息の発作なんです」と言われた。これは確かに苦しい。知らない人には分からない苦しさである。その苦しさに子どもの時から直面していたと言うのだから、かなり辛い思いをしてきたと思う。

そんな体質であったことを今の山口が振り返り、気づいたことは“人間の身体は自分が選んだ食べものや飲み物からできている。吸い込む空気、触れる水の大切さ皮膚からも有害なものを日々摂取しているかもしれない”ということだった。

自分の「好き」を仕事にしたい。そんな山口にチャンスが…

もう一度、山口の子どもの頃の話に戻す。
病気がちだった彼女は当然のごとく、食も細く、体もガリガリだった。弱いことで嫌な思いもいっぱいしたらしい。走ると、気管支が弱いのですぐに息が上がってしまうし、体力そのものがなかったのだ。だから、スポーツをすることには気持ちが向かなかった。どちらかと言うと、インドアな少女だったのである。
しかし、そんな山口も成長して、それなりに体力がついてくると、家計を助けるためにアルバイトをするようになった。中学時代から新聞配達をはじめ、その後、スーパー、パーティーコンパニオンなど、さまざまなアルバイトをやったと言う。

「アルバイトは運動と違って、特に体を動かすというわけじゃない。だから、できたのと、接客という仕事そのものが好きだったんですね。体を動かすというより、口を動かすという感じ(笑)。好きなうえに、働くことで収入もある。『こんなにいいことないなぁ』と思っていました」

その後、山口は高校卒業をしてから英語の専門学校に入学する。その理由も「英語運用能力があれば仕事に有利と思ったから」である。山口は10代にして早く働きたい、社会に出たいという気持ちを抱いていたのである。そして、念願かなって就職と同時に上京する。そこでは、商社の営業事務の仕事をしたが、事務職という仕事が合わず(本当は営業をしたかった)、「石の上にも三年…」と思いながら、がんばっていたそうだ。そんなある日、転職情報誌を見ていた山口の目にとても魅力的な写真が掲載された広告が飛び込んできた。

「それがとても変わった形の椅子やソファが並んでいる写真で、一般家庭では絶対ないであろうというインテリアの写真ばかり。でも、それが『面白い!』と思ったんです。さきほど、お話したようにインドアだったので、家の中で模様替えをするのが好きでした。そうは言ってもモダンなもの、変わったものに触れる機会が少なかったので、その会社の求人広告の写真がすごく印象的だったんですね。仕事内容はスタイリストに家具をはじめとする小道具をリースする会社だったのですが、そこに応募したところ、人気もあり、20倍もの応募確率。『こんなに大勢の人が応募して、いけるかなぁ』と思っていたのですが幸いにも試験に受かり、採用していただきました」

そこの会社の社長がスタイリストでもう一人がカメラマン。一風、変わった業態だが、スタイリスト事務所とカメラマン事務所とリース業、撮影スタジオをやっている個性的な会社だったのだ。
山口はそのリース部門に配属されたが、フットワークが良かったせいか、いつしか撮影に駆り出されるようになる。NHKへ修行に出されて美術進行のアシスタントをさせられたり、揚げ句にスタイリストではなく美術としてインテリアや小道具など、裏方の仕事についた。そしてインテリアはもちろん、「ためしてガッテン!」やニュース番組、子ども番組などを経て、Gacktなどのアーティストのアルバムのブックレットなどの美術を担当するまでなった。この頃から体力仕事もするようになり、体に自信を持てるようになった。

その仕事を10年した後、山口はフリーになる。そして、NHKのレギュラー番組をしていたスタッフと結婚。彼女にとって、二度目の転機が訪れたのがその頃である。

結婚をして、妊娠する、それでも働きたい。「いつまで好きな美術の仕事をできるだろう」という思いから、インテリアの勉強もした。山口の話を聞いていて、「好き」をとことん追求しているなと思いながら、稽古に専念する武道家の姿をだぶらせたのは、自分だけだろうか…。やがて努力の甲斐あって、インテリアコーディネーターの資格を取得。建築デザイン事務所へ就職した彼女に二つ目の転機が訪れる。

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