西川享助の武道人生③

2004年に小金井と六本木の道場長に就任

西川享助

場所探しをしたところ、赤坂に氷川武道場があった。そこを日曜日に借り、六本木同好会を本格的に始めた。その頃は日曜日に場所を開放しているジムや道場がないので、稽古をしたくてもできない人がたくさんいた。そこで、西川の同級生でwebサイトを作れる人がいたので、作って、門下生を募集したところ、入門者がどんどん増え、アッという間に小金井・世田谷道場より人数の多い道場になった。そうなると、当然のごとく、西川の責任も大きくなる。同時に、練習量の多さに比例していく。試合にも出場するようになった。最初は西川本人が第三回関東大会に出場して優勝。その時に左手を骨折してしまい、翌年は休んで、次の第五回関東大会に出場して、ここでも優勝した。すると、その翌年の全日本に出場してみないかと言われて予選に出た。そこで始めて、ヘッドギアを着用した総合ルールになったのである。すると、打撃ではあれだけ、力を発揮できたにもかかわらず、寝技であっさり負けてしまったのだ。

「そこでまた、火がついて、今まで以上に練習量が増えました。密度も濃い内容になったのですが、その時に、少しトラブルありまして…。日下道場長が体調を崩されて、長野県に戻られたのです。結果的に指導者がいなくなったため、小沢先生から電話があり、『きみが道場長をやれ』と言われました。当時は緑帯だったのですが、茶帯になったら、道場長になれるのです。次の審査の内容が良ければ、茶帯になるから、小金井と六本木の道場長をやってほしいと言われました。それを引き受けて、2004年に小金井と六本木の道場長に就任したのです」

小沢代表との出会い

ここで話は前後する。西川が緑帯の時、寝技ありのルールの大会に出場した。圧倒的に攻めていた西川だが、試合の終わり間際に腕ひしぎ十字固めが決まって、そこで試合が終了した。結果、判定負けである。一瞬、「えっ?」という気持ちになったらしい。試合が終わってから、憤懣やるかたではなかった。かぶっていたヘッドギアを投げつけて、「ふざけるな!」と思ったそうだ。すると、本部にいた小沢代表に呼ばれて、「あの試合はたぶん、君の勝ちだよ。でも、判定が出てしまった以上、覆すことはできないから仕方ない。その代り、次の全国大会は推薦枠で出場させるから、がんばってくれ。ただ、君のその闘争心の強さは逆に寝技の欠点になるよ」と言われたのだ。そして、その翌年の予選にも出場したのだが、またしても十字をとられて負けてしまった。当時を思い出しながら、西川は話してくれた。

「その時に小沢先生が言われた『闘争心が逆になる』という言葉が身に染みたのです。そこから徐々に禅道会の心の問題をはじめ、自分を内観する禅の部分などを掘り下げる稽古をしました。つまり、一人稽古の時間を今まで以上に増やしたのです。基本・移動稽古をメインに一心不乱に行う、意識の部分の稽古に集中するようしました。それを続けているうちに、試合も勝てるようになったのです」

東日本大震災と二人の仲間の他界

ちなみに、西川は小沢代表から小金井と六本木の道場長を任される際、「茶帯になったら、人に教えることの方が多くなるが、かえってそれをすることで強くなれる。だからこそ、君にやってもらいたい」と言われた。最初は意味が分からなかったが、後々、人に教えることでインプットしていた技術をアウトプットできるようになり、それが技術習得に役立つことを身をもって実感した。さらに、道場長になったことで、責任感も生まれた。禅道会の技術を正確に伝承しなければならないという意識が芽生え、それも大きく影響して成長することができたと言う。結果、2004年に黒帯昇格が決まった。本来は全日本大会に優勝することで黒帯になるのだが、西川はワンマッチの試合で昇段した。しかし、彼にとって、それは納得するものではなかった。

「悔しくて、猛稽古をして、翌年の全日本大会で優勝して、二段に昇段することができました。その時に、今まで小沢先生に言われ続けていたことが全てつながったんです。禅道会の稽古体系や技術体系の素晴らしさを改めて実感でき、これを東京中に普及することを決意しました」

禅道会一筋にと決意した西川は仕事も辞め、小金井市に常設道場を開設する。その後、順風満帆に道場生も増え、本人も全日本大会マスターズで三連覇することができた。しかし、全てがうまくは運ばない。あの東日本大震災である。当然ながら、二日後に予定されていた関東地区の大会は中止になった。東京も被災したので、公共施設が停止になり、活動存続の危機に直面したのである。一時的に二か月ぐらいは活動できなかったが、幸いにも門下生の数は減らなかった。全国の支部長からお見舞金をいただき、どうにか乗り越えることができた。だが、それだけでは終わらなかった。西川にとって、大切な人が二名亡くなったのである。2011年に先輩として敬愛していた日下が40歳という若さで胃がんで他界。もう一人は小金井道場開設時から少年部の指導を手伝ってくれていた宮毛指導員である。

「二人の大切な仲間を失い、ショックで辛かった。しかし、道場運営をしっかりやっていくことが他界した仲間への弔いになると、心に刻むことになりました。そこで、さらに禅道会の自分の内面を見つめる稽古に重点を置き、自分の心を保ち、調えることを心がけました。人はいずれ死にます。だからこそ、過去や未来に囚われることなく、“今”に集中することの大切さを痛感したのです。それを体感しながら稽古をするようになり、気づけばもう、10年になりました」

心技体全てにおいて、バランスのとれた禅道会の稽古体系

西川に、武道としての禅道会をどう思うかと聞いた。その答えがこちら。

「バランスのとれた武道だと思います。心技体全てにおいて、です。心の部分と技の部分が離れているのではなく、その二つが繋がっていることが稽古を通して、実感しました。特に精神面が心理・大脳生理学から成り立つことが良く分かった。ここは小沢代表の理論が体系化されているからだと思います。それは自分の人生にも活かされています。私が指導に当たる道場も禅道会東京支部となり、四つの道場で230人の道場生を抱えるまでの大所帯になりました。それも“今の稽古”に集中して淡々と積み上げてきた結果です。心理面の話になりますが、人は特に過去に囚われ、“予期不安”で未来に対して、不安を抱きがちになります。それを小沢代表に学んできました。そして、これからも変わることなく、日々の活動を続けていくことが自分の使命だと思っています。新型コロナウイルスも一年になりますが、できることを日々、一日一日続けていけば、必ず明るい未来がくるでしょう。なので、恐れることは何もないと思っています」

様々な状況が起きようとも、西川の行動は変わらない。毎日、稽古をして、指導をするという繰り返しだ。しかし、西川自身の内面は大きく変わっている。自分の内面が変わることを恐れない。人はともすれば、他者を変えようとしがちだが、他者と過去は変わらない。しかし、自分と未来はいくらでも変えられる。呼吸法と自分を客観的に見つめる内観でそれが可能になる。人は自分を変えたくないという気持ちを持っている。そこで、周りの環境を変えようとするのだ。でも、いくら周りの環境を変えようが人との付き合いを変えようが、自分の内面を変えないと、周囲との関わりはうまくいかない。だからこそ、自分の内面を変化させ、良くしていくことで、周りに良い影響を及ぼすことができる。

「そのような柔軟な意識を育んでいきたいです。禅道会の門下生やディヤーナ国際学園の子どもたちと関わることでそれを学ぶことができました」
そう語る、西川の顔はずっと、柔和で懐の大きさを感じることができた。

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