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禅道会・石岡沙織の武道人生①

やんちゃなまでに元気な少女が中学進学で人見知りに…

禅道会・石岡沙織

ここで紹介するのは、今回、紹介するのは黎明期の女子総合格闘技界をリードしてきた、石岡沙織選手(以下、敬称略)広島県出身。軽量級ながらも、下がることを知らないアグレッシブな戦いぶりに魅了されるファンも多い。そんな彼女は子ども時代、どのような少女だったのだろう。

「やんちゃな子どもでした。雲梯もぶら下がって渡るのではなく、いつも上で遊んでいて。他にもいろんなところから飛び降りるわ、落ちるわで、『落ちてもいい!』というぐらい破天荒なまでのチャレンジャーな女の子でした」

インドアではなく、竹馬、一輪車、鬼ごっこなど、アウトドアでの遊びを楽しんでいたと言う。一輪車も座椅子を一メートル半ぐらいの高さにして漕いだり、竹馬も足元を一番高いところに乗って歩いていた。危なっかしくて、生傷の絶えない少女時代を想像してしまうが、やはり、親は心配したそうである。そんなわんぱくガールの石岡が中学校に入った途端、思春期になって人見知りになった。その理由は小学校から学んでいた柔道にある。柔道そのものは良かったのだが、先生の推薦で“柔道の強い中学校”入ったのだ。当然のことながら、そこには前から知っている友だちはいない。なじめなくて、寂しい現実に向き合ったのだ。子ども心に「私なんか…」という否定的な気持ちになり、自己承認欲求が強くなってしまった。しかし、石岡の強いところは、ここですべての学生生活がダメにならないところだ。クラスの雰囲気にはなじめなくても、柔道のように自分の力で結果を出せる世界にのめりこんでいったのである。

ここで話は前後するが、「なんで、小学校の頃から柔道?」という疑問がわいた。石岡が始めたのは小学校四年の時である。柔道でなくても、他のスポーツはいくらでもあったと思ったのだが…

「私が住んでいるところが田舎で、公民館で習字やジャズダンス、それ以外にも町の教室で剣道、柔道を催していたのです。小さな地区だったので、ブーム的にみんながやりだすと『じゃあ、私も!』と、いろいろなことを始めては、辞めという感じでした。ピアノも二年間ぐらいやっていたらしいのですが、ほんど記憶にありません。続いたのが柔道だけでした。これも、『一緒にやろうよ!』という友だちに誘われて、のりで入ったようなものです。自分で言うのもなんですが、上達も早かったし、強かった。それを周囲からも評価されたのが、子どもなりに嬉しかったですね。でも、一緒に入った友だちが辞めてから次第に嫌になってきて…。先生は監督、コーチがいたのですが、コーチが厳しくて、練習では投げなれまくりました。そして、監督からはやんちゃで悪いことをしては怒られて、稽古に行くのが億劫になっていたのです。でも、家と道場の送り迎えもしてくれましたし、試合があると会場への送迎もしてくれました。また、他の道場の先生に褒められたり、同じ道場の強い先輩に『一緒に中学に行って、柔道をやろうよ』と誘われたりして、続けることができました。当時の先生とはいまだに疎通があり、誕生日にはプレゼントを贈ったりしています」

一時的に遠ざかりはしたものの、改めて柔道に戻る

禅道会・石岡沙織

中学校時代の実績もなかなかのもので、地区大会では優勝。県大会では優勝はできなかったが、二位か三位まではなっていた。そして、そのがんばりもあって、二年生で初段を修得できた。石岡の話では、広島は昇段審査が厳しく、月に一回ある試合(無差別)で十勝しないと、審査が受けられない。さらにまた、その昇段試合で勝たないと、初段になれない。「市電で中学校の同じ部員と一緒に審査会場まで通ったことを今も覚えています」と石岡。当時の思い出は彼女の心に深く残っているのであろう。続けて、こんな話もしてくれた。

「柔道部には、女の子が三人入ったのですが、いずれも未経験者だったので、他の方と一緒に私も教えたりしました。練習熱心でみんなどんどん強くなり、黒帯を取るまでになりました。また、大会でも団体戦で一位になったのも嬉しかったですね」

そんな石岡に高校進学の時期がきた。柔道で活躍したことを評価され、私立の高校からの誘いや推薦もあったが、学費が全額免除までにはならなかった。「私立では親に経済的負担をかけてしまう」と思った石岡は柔道部の強い公立高校を探した。すると、強いには強いのだが、いずれも偏差値の高いところばかり。これでは、合格したとしても入学してからの勉強が大変だと思った彼女は自分の学力で余裕で入れる高校を選んだ。ここで石岡の“人との巡り合わせの強さ”を感じさせられたエピソード。柔道も誘われて始めたり、先輩から声をかけられたりが多かったが、その高校にも町の柔道教室で知り合った強い先輩がいて、「一緒にやろうよ」と言われたのである。もともと、柔道をやるつもりでいた石岡である。顔見知りの上級生からの声がけがどれだけ励みになったか想像もつく。順調な滑り出しが始まったんだなと思ったところ、意外にもこんな答えが返ってきた。

「それがいろいろありまして…。柔道はやっていたものの、入学半年で先輩とうまくいかなくなりました。それと、女子部員が少なかったことも続ける気持ちを削がれたのかもしれません。それに、部活をやっていない子たちはバイトをしたり、授業が終われば友だち同士で遊んだりで、登校→授業→部活→帰宅というルーティンにやる気が続かなくなってしまったのです。『自分もバイトをしたい。みんな、遊ぶことができていいな』と思って、部活を辞めるという選択をしてしまったのです。同期の仲のいい子からは『続けよう、がんばろうよ』と止められたのですが、これ以上、続けるのは無理と思ってしまいました」

そんな石岡の気持ちも分からないではない。小学校から続けてきた柔道とはいえ、一番、楽しみたい年頃である。にもかかわらずそれができない、人間関係もよくないとなれば、辞めたくなっても仕方がないだろう。柔道部を辞め石岡はまず、“働いてお金をもらう”ことを始めた。やったのがスーパーのレジ、そして居酒屋のホールのアルバイト。今回の取材で話している時も感じたのだが、石岡の声はとてもハキハキしている。アルバイトとはいえ、店側にとって働いてもらうスタッフである。声も明瞭で、人当たりも良い彼女の働きぶりは評価されたと思う。高校生ながらも時給もよく、自分で自由に使えるお金があって、楽しむことができたそうだ。だが、しかし…

「アルバイトをやって、お金をもらって、遊んで楽しいはずだったのですが、いつの頃からか寂しい気持ちがわいてくるようになりました。理由を探っても漠然として分からなかったんですね。だから、それを意識的に埋めようとしても、満たされなかったのです。自問自答を繰り返していくうちに『認めてくれる、自分が熱くなれるもの』を求めていたと気づかされました」

禅道会・石岡沙織

石岡にとって、認めてくれる、自分が熱くなれるものとは、やはり、長年、続けてきた柔道だったのである。とはいえ、自ら辞めると言って去っただけに体裁も悪い。奮い立たせるような思いで、顧問の先生に「もう一度やらせてください」と言ったそうだ。その先生からは「長く休んでいたら、戻るのは難しいよ」と言われたらしい。その言葉通り、久々の稽古は翌日から全身が筋肉痛になった。また、同期の部員で高校から柔道を始めた子もいたが、それでも強くなっているのに驚かされたと言う。このあたりに、石岡は焦りを感じたのではないだろうか。武道でもスポーツでもそうだが、長年やってきたとはいえ、しばらく休みが続くと体はなまる。それを元通りにするには、時間がかかるのだ。彼女もそれを体験したが、集中力と並々ならぬ努力の甲斐あって、復調も早かった。

「そこの高校の柔道部は私が入学する一・二年前がインターハイに出れるぐらい強かったんです。でも、毎年、決勝戦に残る相手が強くて結果は二位止まり。だから、その子に勝ちたくて、対策を考えて練習していました。その成果が実ったのが、三年生のインターハイ後の中国・四国大会。軽量級で出場し、準決勝でその子と対戦したのですが、念願の勝利!『この勢いで優勝までいこう』と思ったのですが、そこで力尽きてしまったのでしょうね。せっかく雪辱を果たせたのに、結局一位になれることはなく、ずっと県大会は二位で高校生活を終えました」

強豪相手に勝ったことで、石岡は柔道に思い残すことはなく卒業することができたと言う。また、関係各界から柔道の選手として推薦や声をかけられたそうだが、就職という道を選んだのである。

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