梁山泊空手道連合・総帥 富樫宜弘の空手人生・2

道無門会脱退後、梁山泊空手道連合を設立する

前回に続いて、梁山泊空手道連合の富樫宜弘総帥の話。結婚して練馬に移ってからの富樫は本格的に空手の稽古を積み、やがて、無門会の練馬支部を設立、練馬支部長となる。支部は練馬で二か所、杉並でも一か所、二年ぐらい指導にあたっていた。しかし、兄と意見が合わなくなったこと、さらに仕事も大変な時期だったので、無門会は辞めざるをえなくなった。そして、昭和60年3月に日本空手道無門会を脱退(練馬支部は無門会に残った会員に移譲)。同年5月、31歳の時に梁山泊空手道連合を設立する。以後、東京練馬を拠点に横浜市鶴見、東京・国立、千葉・大多喜、東京練馬・光が丘、東京・国分寺に次々と支部を設立。それぞれの地元でやってほしいという門下生の声もあり、みんなで協力しながら稽古に励んでいた。

稽古内容は無門会の練習に近かったが、そこに沖縄拳法とキックボクシングの練習内容をプラスしたような内容で行っていたそうだ。組手はスーパーセーフ着用で顔面あり。この当時から他の公式空手の大会にも出場することが多くなったが、無門会で行っていた打撃技はなかなか決まらないというのが他流試合をするにつれ、分かってきた。そのうち、門下生が新空手(その当時は二分間の試合で、腰より上の蹴りを5発当てるというのがポイントになっていた)の大会に出ることになった。グローブ着用、顔面ありでスタミナに任せて打ち続けるような試合形式である。

「そこでまずは、技術練習もさることながら、体力勝負になるので、スタミナをつける練習をさせて出場させていました。その時、二人の門下生を出したのですが、一人は蹴りの本数が足りなくて負けてしまいました。もう一人は高校二年生でありながら、一般部の重量級に出場し、勝ち続けて準優勝までいきました」

その頃、梁山泊空手道では基本的な練習やスタミナ練習を行うと共に「受けて返すという練習」というより、「受けながら返す」という同時攻撃に転換した。その集中練習を結構、やっていたそうで、合宿などの練習で多い時は一日5000本やり、みんな、手が上がらなくなったこともあったそうだ。

長男・富樫龍一の数々の大会における目覚しい活躍ぶり

これは空手家(武道家)の常であろうが、自分の子どもにも空手を習わせたいと思うものである。富樫もそうだった。

「長男も二歳ぐらいから稽古させ、小学生から防具着きの総合空手の試合に出場させていました。今は38歳になり、横浜の支部長を任せていますが、本人にとって、空手の稽古は嫌な時もあったでしょうね。長女も稽古をさせていましたが、中学生の頃はすごく嫌がっていましたから。ちなみに長男は総合空手の試合で三位、そして、中学二年生の時の試合(この日、39度近い熱があったが無理に出場させた)は準優勝、そして、三年生で優勝しました。実はその時も足の指を骨折していたのですが、まさに気力をふるっての優勝でした。以降は梁山泊空手道の大会に出場し、第五回から十回まで六年連続で優秀したので、その後引退させました。他の団体にも出場させたかったのですが、長男の強さが噂になり、出場を嫌がられてしまったんです。それとは別に第一回の格闘打撃選手権という大会(防具とグローブの二つの部門)があり、長男はグローブ部門の重量級で優勝しました。当時、長男は警備会社・興和警備保障の西村社長のもとで仕事をしていたのですが、そこで知り合ったキックボクシングの新田明臣選手(元WKAムエタイ世界スーパーウェルター級王者)も第一回の大会に応援に来てくれました。新田選手の誘いで長男もアマチュアのキックの大会に出場しましたが、50秒でKО。その後、キックボクシングの団体・J-NETWORKで選手としてデビューしました。そこでプロとして何戦かこなしたのですが、仕事も多忙でプロ選手としての練習ができなかったため、スタミナ不足や怪我のため、2007年に引退させました。引退させた後は本部の師範として私と共に門下生の指導にあたっています」

目指すのはあくまでも競技ではなく、武道としての空手

ここで、富樫に現在の競技空手への疑問を問いかけてみた。空手は正式にオリンピックに採用が決まったのだが、富樫はこの点についてどう考えているのだろう。

「そうなると、日本が守ってきた武の伝統が守れなくなります。空手は、日本古来より伝わる武道であり武術。オリンピックはスポーツの祭典です。にもかかわらず、なぜ、オリンピックに出なければならないのか?というのが私の考え。ルールの拘束も柔道と同じようになってくるでしょうし、競技化の傾向はさらに強くなってくると思われます。そうなると、武道としての空手の本質が失われないかと懸念しています。今の伝統派の空手の大会そのものを見ても、競技というカテゴリーにはまっているように感じてなりません。大会で行われる型に関しても沖縄の空手家のそれと比べると、だいぶ違うんですね。沖縄ではあのような型はやりません。もう少しゆったりして、突いた瞬間にカチッと止めるのではなく、身体が震わせるような感じで、動き全体にしなやかさがあります。ですから、今の伝統派の空手を見ていると、型試合のための型という気がするのです」

富樫が主宰する梁山泊空手道が目指すのは、あくまでも武道としての空手なのだ。だから、競技的な空手ではなく、眞の日本武道を後継者へ伝えたいというのが富樫の考え。だからこそ、梁山泊空手道では、古来よる伝わる武道としての空手、さらには古流武術・拳法の継承を組織的に活動しているのだ。このように書くと、入門者にとって、敷居の高い空手道場のように思われるかもしれないが、そうではない。武道としての空手を目指す梁山泊空手道ではあるが、稽古は「年齢・性別を問わず、誰もが無理なく稽古でき、空手の魅力を感じてもらえる」ような内容になっているのである。

話は変わる。現在の梁山泊空手道の稽古は基本稽古、移動稽古を行っているが、数年前から練習体系をかなり変えたそうだ。

「基本の稽古に型は子ども用の型が二つ。それプラス、中学生以上は護身の型があります。胸や手をとられたらどう対処するかという型です。それ以外に雲龍(うんりゅう)という型も行っています。組手型は17法作りで、攻撃から受けて返す技や攻撃だけのもの、受けるだけのものも行っています。それを合わせての17法。運足を使った、捌きに近い稽古体系です。武器術としてはトンファー、釵(さい)術、杖術をやっています。これらは『やりたい!』という人にやらせていますが、杖術は門下生全員に教えています。組手はあくまでも実戦重視で、スーパーセーフ着用の顔面有りの直接打撃制です。試合は年二回、春は睨撃杯の大会で組手と型が行われます。また、組手は中学生まではトーナメント制を採っていますが、大人の場合は有段者が有級者の攻撃を受けて返す組手を四人ぐらい相手に連続してやります。この場合、有段者は自分から攻撃はしません。あくまでも相手の攻撃にカウンターで返す方式でやっており、その中で一番、出した打撃技の内容が良かったものが優勝になります」

武道としての本質を損なうことなく目指し続けていく梁山泊空手道、それは富樫にとって、永遠の武道探究の道なのだ。

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